「はこだてわいん」のロゴについて

皆さんはワインは好きだろうか。

私は大好きだ。

私は旅が好きなのだが、お酒を飲める歳になってから旅先の地酒に興味が湧くようになってきた。 中でも私は函館の街が大好きでことあるごとに行っており、以前n回目の函館を訪れた際に「はこだてわいん」というワイナリーを知った。

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しばれわいん

厳密には函館空港から帰るときにお土産売り場で知った。見た中で「北海道限定」と書いてある「しばれわいん」に目が止まり、自分用とお土産用で購入し、帰宅してからいただいた。葡萄を凍結させて搾汁することにより、葡萄の果汁成分を濃縮して醸造している、高級デザートワインである。過去に著名な賞も受賞している。

www.hakodatewine.co.jp

口に含んだ瞬間に広がる葡萄の甘さ、華やかな香りが印象に残った。大変美味しいワインであった。 ちなみにこの経験のせいで、ついこの間函館に行った際に3本+αも購入してきてしまった。反省はしていない。f:id:dnsym:20200301034727j:plain

さて、今回取りあげたいのはこのはこだてわいんのロゴである。

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はこだてわいんのロゴ
このロゴをまじまじと見たとき、なんて洗練されたデザインなんだと感じた。なぜか。

まず、パッと見ると左右対象のように見えて左右対象でないことに気づく。そしてよく見てみると「函」の文字の中に「ワ」「イ」「ン」の3文字が隠れていること、それらを除くとWINEのWになっていることがわかる。

複数の文字で構成されているロゴや単語などはしばしば見かける。しかしこれに感銘を受けた点は「上手に隠れていること」「程よくフラットでうるさくない」ことである。

例えばこれを広告などで見たとき、ロゴとして入ってくる情報は「函」という比較的情報の量が少ない1文字である。その一方で函の文字はワイン,Wで構成されており、これに気付こうとなかろうと、情報量が増えていることに鬱陶しさを憶えない。複数の文字を合成しているにもかかわらず、初見で函館の「函」であると簡単に知覚させ、それ以上深読みすることを強制させない(函の下にもwineと書かれていることが多いことからも)。それでいて、(基本的にこれを目にするのは函館なので)函館のワインなんだと理解させることができる。大変完成度の高いロゴであると感じた。

さらに、ワインとWの文字があるにもかかわらず、これがうまく隠れてくれているおかげで函の1文字であるというよに感じるため、パスの少ないフラットなデザインにしてもうるささをほとんど感じない。配色も相まって落ち着きと上品さも感じる。日本のワインとしてふさわしい装いをしているように感じる。

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ワインのボトルのデザインというと、ヘアラインやブラケットのセリフ体で銘柄が英語で、年数が数字で書かれていて、ワイナリーの絵が細めで不均一なパスで書かれているものを思い浮かべるし、高級なワインこそそれに合致する。

国産ワインに散見される、日本人にあった、日本らしいワインとしての「品」の出し方は、何もヨーロッパなどのそれに似るものではない。

はこだてわいんは、日本人の味覚に合う「日本のワイン」を目指しています。もちろん、西洋の技術や味覚をそのまま模倣するのではなく、日本人のライフスタイルを意識した、カジュアルながらも本格的なワインをつくっています。

デザインも同様、地域によって品を装うツールは様々である。洗練されたパーツを設計し揃えることで、ブランドとして認知されていく。

カジュアルでいて本格的なはこだてわいん、機会があれば是非召し上がってみてください。

www.hakodatewine.co.jp

理由はないけど教職を受けている情報系学生のお話。

この記事は教職アドカレ2019 21日目の記事です

https://adventar.org/calendars/3961

こんにちはcoins17の教授(@ITF_ProfF)です。 私は1年の夏終わりから教職をとり始めました。科目は中高数学と高校情報です。 現在3年で来年度は中高一貫の母校に数学で教育実習に行く予定です。

さてこのブログでは「理系で教職」(とりわけ非自然系)というマイノリティーな私と教職の付き合い方に関して綴っていきます。

時間が厳しい(何でこんな試験期間にアドカレ入れたんだ、過去の私よ)のでパパッといきます!ではいきましょ〜〜

教職課程履修中の様子

教職履修開始(2017年9月頃)

なぜ情報科学の私が教職をとり始めたのか。

正直何も覚えていない。

多分何となくだったと思う。本当になんとなく、ちょっと興味が沸いたからだったと思う。

確か、何となく「ふーん教職かー、母校で教育実習とかあったな、あれ面白そう」くらいのノリだったと思う。興味が湧くのにわざわざ理由立てたりしないもんね、少なくとも私は。

なので決して「教師になりたい」「将来の保険として教職を据える」とかの考えはありません。本気でやってる人ごめんなさい。

そんなこんなで履修を開始。初めて受けた教職の講義は「教育心理学1」だった。前日まで島根にいて寝台特急で早朝に東京帰ってきてそのまま講義だったからよく覚えている。 最早内容なんて覚えていないが、案外面白いなと思った。教職課程っていうくらいなので、教員免許対策的な、それこそ入試対策見たいな空気の授業が続くのかと構えていたら、普通に大学の講義で安心した。さらに教職は、coinsの各科目に比べて単位をとりやすいと感じた。これは集中講義で8、9割の単位を取れること・集中の講義の多くがレポートもしくは持ち込み可の試験であることである。

そして教職の履修届を大学にだし、教職生活が始まる。

教職に関する科目(2018年度春秋)

そして選択的にひたすら集中講義で教職を取っていく。当時は宅通もしていたが、土日に家で惰眠をむさぼるくらいだったら土日に講義に出て内職を盛んに行い、試験を有り余る才能で解いて、単位を稼ぐ方が有意義であった。内職とは言っても、授業中の興味がある内容については耳を傾けた。

この頃教職を受けている中で「全国民教職とるべきでは...?」と思った。というのも、教職課程で教えてもらえることは文科省のアレコレや教育の歴史なんかに止まらず、子どもの心身発達・カウンセリング・障害者支援(特別支援教育)と言ったことなど、多岐にわたる。この辺のことを学ぶと、特に子供の心身の発達であったり、その子供が受ける教育についてほとんど知らずに、将来家庭を持って子どもを育てることになった場合大変苦労するのではないか、もしくは失敗するのじゃないかと不安になる。

そんなこんなで私はこの頃教職に対してちょっと面白さをを個人的に見出した。本来の教職免許を据えた形ではないので、あくまで教育という一つの分野におけるものであるが。

去年は結局1年度で合計70.5単位取得した。宅通だったから大変だったろうに、と言われるが、そうでもなかった気がする。授業に出席すること自体に苦痛さを抱かなければ誰でも出来るのではないだろうか?でも今は絶対したくない。絶対。

ちなみに集中教職の唯一の楽しみはお昼ご飯だった。

教科指導法(情報・2018年夏,2019年夏)

しばらくすると教科指導法もやるようになった。私は情報と数学である。中でも情報科の指導法の授業は面白い。(2019は重かったけど...)

情報科というとエクセルやったりワードやったり、みたいなイメージを持つ人が多いだろう。しかし指導要領が改定されると、プログラミングや論理的思考力を養う側面が大きく出てきた。この手のことはcoinsでよくやるが、それを高校生向けに教える強化としてやるには、色々工夫があったりする。

例えば、アルゴリズムを教えるとしよう。実際教科書の中でソートのアルゴリズムを扱っている。ソートアルゴリズムには色々あるが、クイックソートが速いと言われてリウ。coinsのDSA講義・演習だとそのアルゴリズムに従ってプログラムを書いたり試験で各ステップごとの様子を書き下したりする。これ、ちゃんと勉強しないと案外難しい。

この際に用いられる方法論として「アンプラグド」というものがある。 アンプラグドプログラミング教育:

電子デバイスを使わずにプログラミング的思考を学ぶ

パソコンやタブレット端末といった電子機器を使用することなく、プログラミング的な思考を学ぶ学習方法。カードやパズルなどを用いることで、コンピュータが動作する仕組みや、プログラミング的な問題解決の手順(アルゴリズム)を学習する。児童・生徒に対して十分な数のパソコン/タブレット端末などを用意できない環境でも、プログラミング的思考の学習が可能になるメリットがある。 edtechzine.jp

実践事例とかが報告書の形で上がっているので、こういうのを見ると結構面白い。というのも、日々それわ学んでいる側、それも大学生から、の身からすると、「なるほどこういう教え方があってこういう効果があったのか」などいろんな知見が得られる。

今後プログラミングが教育現場で重視されていくことは皆さんもご存知だろう。小学校でプログラミングの必修化というのもある。そうすると、情報科においてプログラミングを通した論理的思考力の育成に力が注がれていくことになる。プログラミングが「生きる力」のために必要か否かはおいといて、その手の能力が必要となる局面であったり職業の増加を国は予見してのことなのだろう。

そのようなちょっと先の未来において、私が持っているであろう情報科の教職免許をいかに使うか、これはちょっと楽しい悩みどころである。

教職に関する科目(2019年度春秋)

2年生の時にいっぱい取ったおかげで今年はあまり取らなくて問題なかった。ただ、モチベが下がった気がする。というのも3年になって色々と忙しくなってしまったからだ。そうなると1限の教職に出るのも億劫になる。

だがしかし、ここまで順当すぎるほどに単位は回収してきた。もう引き返せないのが正直なところ。 こう思ったことがある教職勢は他にもいるだろう...

現時点で残っている授業は数学科の指導法2つである。ちょっと苦痛に感じているところが2年の時と違うところだが、あと3単位と来年の教育実習、事後指導、介護等体験(これが重い)を乗り越えれば晴れて教員免許である。

けど、思い悩むほどではないのが私の所感である。このまま突っ走る。

おもい

みんなにメッセージがあるとすれば、一つだけ。

教職はとるな。

大体教職を斬ってもいいという心境になるのは、切ってはならい状況になった時である。終始私は惰性でやってるし、根っからのポジティブ人間なので別に病んだりはしない。そういうポジティブな人間じゃない限り、もしくは教職に大きな熱意のある人じゃなきゃおすすめできない。

ただ、教職を受けてみないと知り得なかった知見や思想はあるんだけどね。そういうような、おすすめできる点もないわけではない。

あと一つ思うのは、教職課程(委員かな)が全体的に頭が高すぎる。配慮がない。わがまま。大人気ない。自己中。あくまで教職免許を取りたいと思った人に対して、履修や実習におけるサポートをだけをして欲しい。

例えば、「教職志望の人はみんなこれでてくださいね〜授業かぶっていてもこっち優先してね〜」というスタンス。この時点でちょっと「?」となる。そしていざ出てみると特有の見づらい資料にそれを読み上げるだけの説明。優先するだけの価値を感じなかった。資料をmanabaにアップで終了、これでいいと思う。

授業自体は全く問題ない、どころか普通に面白い(時々悪い意味でやばいのあるけど)。何でもかんでも俺を優先にしろっていう教職のメンヘラ気質がどうも気にくわない...

さらに、これは教職課程の枠を超えたところの話だが、教員に対するキャリア支援が不足しているという印象を感じる。ブラックだとか色々と言われていることは皆さんもご存知。私は教職の現場がブラックかどうかは知らない。私が当事者ではないし、声を大に言ったりして迷惑被るのは先生方なので。が、少なくとも私が受けた授業での現職の先生方は皆「自分ではブラックだと思っていない」「確かに時間外勤務もする時はある」「けどやりがいはひしひしと感じてるし、現状に文句はない」という考えをもたれている。はぁそうなんかと思って聞いていたが、どれも主観なのは変わらない。教員になる人はちゃんと見極めたほうがいいかもしれない。

まとめ

結局は、教職とは付き合い方が重要だと考える。うまく付き合えないようならやめとけ。でも受けて価値が全くないということはないと思う。

coinsにはほんの数名教職課程を取っている人がいるが、各々が各々の理由で取っている、と思う。が、それぞれちゃんと理由は持っているのではないだろうか。

教職課程は慎重に。途中で切ることができるのも事実だし、迷ったらちょっと取ってみようというのもありじゃないかな。

一方で、やっぱ世の中はもっと教育に関心を持ってもいいんじゃないかなー、と教職を通じて思った。これはみんなが教員免許をとれという話ではなく、日本の教育に対してどんどん干渉して理解したり時にはしっかり批判をしていくべきなのでは、ということである。教職課程で学ぶことの中には一般教養にすべき事柄も多い。こういう知識や現状・思想をみんなに還元するプラットフォームがあればいいなと思った。

ところで...

ついこの前、母校の恩師と飲んだ。八海山をお猪口に注ぎ合ったなかなか感慨深かった。 その先生は英語の教師で部活の顧問でもあった。とても退廃的な人間である一方で、親しみやすく、一言で言えば面白い人間だ。私が受験生のころに先生は心臓を患い(今は回復)、入院が暇だというので毎晩のように英作文を添削してくれとメールで送りつけていた。

教員という仕事について、恩師は「まじウゼェ」とか言いながらもとても楽しそうだった。教員の裏側のどろっどろした事情とかいろんな問題行動について「マジ勘弁」「うまくやって欲しい」と口々にいう。でも結局のところ、私も中高時代楽しかったし先生も大変だったろうけどプラスなところも多かったようだ。教職課程をとろっかなーと思ったきっかけの一つであるかもしれない。

私がいろんな問題を抱えた時や迷いごとを抱えた時はいつもノリよく話を聞いてくれた。先生の経験を踏まえた話も大変役に立つ。教師という役職だからこそこの点は目立ったのかもしれない。

私は教師になろうとは一回も思ったことはないが、「うまくやっていく」ことを大切に生きていく。

教職はいいぞ(教職はダメだぞ)

“デザイン”って情報科学?

この記事は coins Advent Calendar 2019 10日目の記事です。

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初め

こんにちは。初めてアドベントカレンダーを書かせていただきます。

情報科学類B3の 教授 です。 「教授」と呼ばれています。

さて、アドベントカレンダー書くにしても、何について書こうかと思い、どうせならcoinsの中で他にやってる人がいない/少なさそうな分野について書こうと思いました。

となるとぱっと浮かんだことは「デザイン」と「教職課程」。

教職については教職アドベントカレンダーがあるので本記事では前者について書いていきたいと思います。

coinsには結構Web開発に携わっている人が多いみたいで、VueやらReactやらNodeやらよくわからん呪文を唱えている人ばっかりでぼくはこわいです。(JS何もわからん)

でも私が「JSなんもわからん、CSSなんもわからん」って言ってる一方、「デザインなんもわからん」って言ってる人が一定数いるように感じます。

そう言った人たちにとって役に立つ記事であるかどうか、これはそうであるか否かのどちらかであるのですが(私の中の小泉進次郎)、 「お前入ってくる学類間違えてるぞ、メ創は南の離れだ」と入学当初相当言われていた私めが過去の自分の活動や経験などを基に、少しばかり世に発信させていただきます。

そんなわけで、本記事ではcoinsがよく打ち当たりそうな、UIとグラフィックのデザインを題材に扱ったりします。デザインというとイラストやグラフィックの制作からブランディングマーケティングまで入る幅広いものをさしますが、ここではそれに限定して話します。

また、デザインの技法であったりという話はせず、私がデザインと向き合う時に思っているフワフワしたことを語っていきます。

お付き合いいただけると幸いです。

自己紹介します。

きょーじゅ
(出典:https://abema.tv/channels/special-plus/slots/EaWJiwRNx3yjaX)

私は画面右上の可愛い女の子です。

  • 通り名:教授

入学したとき、coinsラウンジで同級生に教授だと素で間違えられてからずっとそう言われています。

みたいな人間です。中高一貫の男子校と言うぬるま湯で過ごしている中、中3のころに初めてIllustratorというAdobeのイラス等制作ソフトを使って学園祭のパンフレットをデザインしてから、去年の雙峰祭のパンフレット制作を手掛け、現在にかけてのおよそ7年間のイラレ歴があります。

職歴に書いてあるところでは全部デザインに関する仕事をさせていただいております。FeedalではアプリのUI/UXを、輝日ではグラフィックデザインをやっています。f:id:dnsym:20191210232949p:plain

頭が長くなってしまいました、本題に入りましょう。

なぜデザイン

coinsとデザイン

まず前提として、私がデザインをしているのは趣味もしくはその延長の仕事に限られ、学問として扱ったりしようと思ったことはありません。coinsでデザインについて研究したりしようと思っていたりしているわけではなく、大学で学びたいことがcoinsで学べそうだったのでcoinsにいる次第です。

情報科学というとコンピューター、とりわけハードウェアにソフトウェア、数理最適化や機械学習であったりと多岐にわたる幅広い学問をイメージする人が多いでしょう。デザインという言葉が明確に出てくるのは視覚情報や認知科学の分野とかでしょうか。

しかし、デザインはどこにもあります。人と接するところには必ずあるものです。これは言い換えれば、デザインの領域でないからデザインは考えなくていいのではなく、こっちがどう思おうが"デザイン"はこっちの領域に踏み込んできているのです。

でも、これを聴いて(広義で)斜に構える人はいるのではないでしょうか。

Example1

例えばこれ。

$ python tsp_ex2_wGurobi.py
(前略)
Optimal tour: [(1, 4), (1, 5), (2, 3), (2, 6), (3, 5), (4, 6)]
Optimal cost: 2.8464285185511344

これはcoinsの情報特別演習っていうやつの一環で作った巡回セールスマン問題を解くプログラムを実行したときの結果です。(コードはこちら)

配送車(セールスマン)がn地点に荷物を届けたい時に、どのようにそれらの届け先を回ればコストを最小にできるかという問題です。

さて想像してみてください。あなたは今、1時間くらいかけて教科書などを参考にしつつ、この巡回セールスマン問題を解くプログラムを書きました。出力するときのスタイルも自分で書いて指定しました。例えば上の結果のように。

このとき、あなたは黒い画面に表示される2行の結果をみて理解できるでしょうか。

これはきっと YES です。だってコードを0から書いたのは紛れもなくあなたであり、あなたの解釈のもとで作りあげられたコードを実行してエラーなく結果が出たに過ぎないからです。

さてさて、さらに想像してみましょう。これは演習の成果の一つなので、あなたは皆さんにこの結果を発表しなければなりません。上の結果を見せれば皆さん理解してくれるでしょうか?

これはきっと NO ですね。みんなはあなたではないです。あなたが上の2行をみて即時に理解できても、他の人はそうは感じず、むしろわかりにくいという印象を与えてしまうかもしれません。

でも、こうするとどうでしょう?

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この画面を見せて口頭なり文面なりで少し説明を加えれば、「ああなるほど、青の点が届け先で、そこを黒の線で結ばれているように巡回していけばコストが最小になるのね」と理解してもらえるかもしれません。

Example2

https://livedoor.blogimg.jp/jin115/imgs/2/6/26748497.jpg (出典:https://livedoor.blogimg.jp/jin115/imgs/2/6/26748497.jpg)

いわゆる汚いデスクトップ。このようなデスクトップ環境で生活したことがある人は少なからずいると思いますが、案外当人にとっては居心地は悪くなかったり。

でも友人と「ちょっとPC借りていい?」「いいよ」みたいなやりとりがあってこのデスクトップを見られた暁には、「デスクトップ汚な、草」とか言われてしまい、大雑把な印象を相手に与えることもあるかもしれません。

ここまでの例は、coinsにとって身の回りのことでしたが、同じような例は日常にも溢れています。さらにデザインはグラフィックやUIだけではありません。一連の行為を通じた”経験”もデザインの対象です。

人とデザイン

さて、先で私は、デザインは「人と接するところには必ずあるもの」と言いました。

上に挙げた例はどちらも、『「モノ vs ヒト」の場合は不都合は生じないこともあるけど「ヒト vs ヒト」なら不都合はきっと生じるよね』、という例でした。

デザインはきっと必要とされるからこそ存在していると思うのですが、ではなぜデザインは必要なのでしょうか。

それは「人間の間で繰り広げられる全て」があるからと私は考えています。「全て」の中には手段は問わないあらゆるコミュニケーションから、見栄をはったり猫被ったりする行動、もちろんマウントをとったりするのも含まれると思っています。

「人間の間で繰り広げられる全て」を自分が行うとき、基本的に結果が都合よくなるように行動するでしょう。もしくは自分が第三者の立場にいて「人間の間で繰り広げられる全て」を意図する方へ操作しようと行動するでしょう。これらは全て良い方向へつなげるものだと思っています。

ではどうやってそれを実現するのか。

このときに人間ははじめて「モノをデザインする」のではないでしょうか。これが「行動」に相当します。

そして誰かがデザインしてくれたものを共有して日々が豊になり、充実した日々を人間は送れるのではないでしょうか。

Example1 名刺

過去に制作したものから例をあげます。 f:id:dnsym:20191210201830p:plain これはFeedalの自分の名刺です。

私にとってこの制作例は『「人間の間で繰り広げられる全て」を自分が行うとき、結果が都合よくなるように』デザインした結果です。

私がある人に「実はこんなことやっています」と言ってこの名刺を渡すとします。もちろん私はプラスの印象を持ってもらいたです。そこで私は相手に印象に残るような名刺をデザインしたり、丁寧にこのFeedalについて説明したりするわけです。

この名刺では、Feedalのテーマカラーであるオレンジを強調し、その中にも広がりのあるイメージを持たせることで、Feedalというアプリの特徴を抽象的に表してみました。Feedalは一言で言えば「Feedalはあらゆるテクノロジーニュースをシェアし、カテゴリごとにキャッチできるサービス」です。無論ITという分野は大変広いため、ここでいうカテゴリも多様です。さらに分野は違どこのてのキュレーションメディアは増えてきているため、テーマカラーは鮮明なオレンジにすることで色彩的に印象的なイメージを持たせようという思いがありました。

この名刺を観察してみます。まず左上から右下にかけて空白をもうけました。媒体は左上から右下への視点の移動に合わせるように、コンテンツを配置したりするのが基本です。ここでこの部分に対して文字の情報は設けずにオレンジ一色にすることで、広いイメージを持たせようという考えがあります。名刺は物自体が小さいので情報が物理的に集約されます。ここに「広さ」というイメージを付与するにはどうすればいいだろうかと考えた、自分なりの結果がこれです。もしこの地の色が白だったら「空(から)」のイメージが先行するかもしれませんね。

そして名刺のデザインはこのグラフィックだけでは終わりません。名刺は手渡すものなので紙質も考慮する必要があります。

先ほど私は左上から右下にかけて空白をもうけたと言いました。さらに、一般的には媒体は左上から右下への視点の移動に合わせるように、コンテンツを配置したりするとも言いました。この二つ、相反してますよね。これを意図的に使ったデザインではあったのですが、ちょっと不安も当初はありました。

そこで私は質感を与えることにしました。

想像してみてください。あなたはこの名刺を私から渡されます。するとあなたはどこを持ちますか? f:id:dnsym:20191210204010j:plain こんなふうに左下と右下を持って受け取りますよね?すると名前や役職の部分は指で隠れて、オレンジ色の地にFeedalという文字とロゴがある状況ができます。

「これは面白い、じゃあ触ったときの感触に遊びを入れれば、それがFeedalという概念に感覚的な意味を付与できるのでは?」と思うわけです。

そこでこの名刺の紙は触るとざらっとした質感を味わえる紙にしました。感じ方は人それぞれなので一概に自分の意図を相手に汲み取らせるのは難しいですが、いい形にはなったかなと思ってます。

まずFeedalの仲間に「めっちゃ良い」と言われたときはうれしかったですね。

Example2 パンフレット

f:id:dnsym:20191210205037p:plain これは1年前、2018年の筑波大学学園祭「雙峰祭」のオフィシャルパンフレットです。

これは『自分が第三者の立場にいて「人間の間で繰り広げられる全て」を意図する方へ操作しようと』デザインした結果です。

ページ数が多い分、それだけこだわりポイントを言っていったらキリがないので、コンセプト・方針だけ話して終わりにします。

(ちなみに今見返したらここもっとこうしておけばよかったと思うボロがいっぱい出てきたので恥ずかしくなった)

このパンフレットは総ページ数136ある、なかなかな情報量を含んでいます。パンフレットを良いものにしなくてはいけないのですが、果たして「良い」とはなんでしょうか。

ユーザの気持ちになってみましょう。

その1、あなたは天下無敵の最高学府、名門筑波大学を第一志望に掲げる受験生です。あなたは雙峰祭にきて案内所でパンフレットを受け取りました。受験生のあなたは「受験に役立つ情報をどこかで得ることができたらいいな、あと名門筑波大の授業の雰囲気とかしれたらいいな!」と思いました。

その2、あなたは名門筑波大に息子がいる、某UT卒の父親です。あなたは雙峰祭でパンフレットを手に取りました。当初からあなたは「息子は〇〇っていう企画に出るらしいから覗いてみよう!」「筑波大の雰囲気ってどんな感じなんだろうか、所詮旧帝大じゃないし笑」と思っています。

その3、、、

その4、、、

さあちょっとふざけましたが、本来はちゃんとユーザのモデルを考えます。もちろんモデルのユーザがどの行動をとるかは想定の段階で一意に定まりませので、仲間と話し合ったり想像したりその対象になりそうな人から少しインタビューしたりして行動を予想していきます。

するとパンフレットのあるべき姿を具体化できていきます。

私はこのときのパンフレットは「情報量をできる限り減らす」ことに重きをおきました。要は妥協ですね。カットする勇気です。

パンフレットを見易い物にする、という目標は最大の課題であるでしょう。制作側は「来場者が難なく学園祭を過ごせるように!」という親切心によりパンフレットにあらゆる情報を詰め込みがちになります。が、情報量が多いと人間は拒絶しがちです。まずみるのを諦めます。

そこで当日の案内に従えばわかるような情報や雨天時のゴミ箱の位置など、ユーザが辿っていく情報の中で比較的低いレイヤーにあるものについてはバッサリ切ると同時に、如何せん広いこの大学を示す地図の可読性の向上やユーザが所望する情報へのアクセスを容易にするための導線の整備に力を入れました。

ちなみにユーザ体験の設計までには力及ばず、一切手はつけれませんでした。これを作ったのは1年以上前ですが、当時の自分を叱ってやりたいですね。無論デザイナーだなんて名乗れません(名乗ってませんでした)。なので「学園祭での一連の体験を良いものにする」ツールにはなれませんでしたし、これの実現のためにはパンフだけじゃ実現不可能なので目標に掲げさえもしてませんでした。

ただ、「グラフィック集+パンフとしての機能」の物体としてはよくできている方だと思っています。

やっぱデザイン

Exampleが長かったですが、ここでのタイトルは「なぜデザイン」です。

まず「coinsはデザインの場じゃないっしょ笑」っていう先入観から「どこにでもデザインがある」から「情報科学分野だって何だってデザインの余地がある」ことに触れ、その必要性について「デザインは人々のあらゆる活動を豊にするものである」とし、「人々を幸せにするために、人はデザインする」のであると述べてきました。

(幸せの定義ってなんですか?とか言わないでください)

そのようにデザインをしている人たちが「デザイナー」かな、と私は思います。

デザインは情報科学

「デザインはセンスでやるものだし、センスのない私はわかりません」「ここはこうした方が良い気がするんですけど、デザインはわからないので無視してもらって結構です…」

なんで黙っちまうんだよ…なんでやらないんだよ…

LOGIC?

とかいう始め方をするとデザインは論理で語れる、という結論にいくだろうとか思われそうですね。

さてさて、これについて語るためには、デザインにおいてためになる教え(ここでは市販の本)ではどう言っているのか気になりますよね?

誰かに「デザインについて知りたい/勉強したいと思ってるんだけど、おすすめの本ある?」と聞かれることがしばしばあるのですが、大体以下のような本を私は推しています。

 著者の筒井さんは、おこがましいけれども尊敬するデザイナーの一人です。以前筒井さんのお話を聴ける機会があって聞いていたのですが、様々な分野や領域を越境されている、今のデザインの時代を生きているすごい方だなと思いました。そのようなあらゆる事例を題材に、その都度デザイナーがどんなことを考えてデザインしていたのかという背景がわかる本です。全く制作しない人もこれ読むと、世の中の万物に対して新たな視点で観察したり、見向きもしなかったものに視線が奪われるかもしれません。

.........

と、つらつらと、「なんや本の紹介かよ」と思われたかもしれません。でも、ちょっと考えてみましょう。どれも初心者向けの本なのですが、『デザインはセンスです(断言)』なんて言ってるような本はないですよね?

どの本もデザインには全て理由があって成り立っていることだったり、大原則に従えば失敗の恐れを減らせる、と言ったことを言ってるように見えます。

実際私もこれらの本を読んで学ぶことは多くあり、これらで学んだ基礎は今でも礎たらしめています。

じゃあデザインはLogicなのか?

私はこれは部分的に YES だと思います。Logic的側面はデザインにおいて大いにありますし(先にあげた本を参照してほしい)、デザインは原則を外さなければなんとかなってるんじゃないかなとは思います。

しかし、原則が外れているデザインは失敗なのか、というとこれは NO です。

それはLogicっていう割にはガバガバすぎでは?っと思われるでしょう。

しかし、一定のセオリーに乗じて構成していけば、良いデザインはできていくものだと思います。これは私の経験則です。まずデザインはLogicとしてやってみる、そしたら色々と理解が深まる、いずれ良いデザインを自力で作れるようになれる、そんなふうに思います。

Time

「じゃあそれらの本を舐めるように読み込んで作れば私は一流デザイナーか!」

ンなわけ、ペッ

デザインは時間と作ってきたものたちがものを言います。たくさん時間かけて、たくさん作って、たくさんフィードバックもらって、そのようにしてデザイナーは成長していくと思います。

ただ勘違いしてはいけないのは、「デザイン経験値のある人何するデザインはすぐ出来上がる」というのは間違いです。 筒井美希氏は「なるほどデザイン」のなかで、「デザインのクオリティ=時間 × デザイン力」と述べています。例えばプロデザイナーが3時間かかてデザイン作る時と普通の人が同じ時間かけてデザインを作るのでは相当差が出ます。また時間→εすれば無論クオリティも減少していきます。あまり知られていないことですが、グラフィックデザイナーのプロでも良いデザイン作ろんいは相当な時間をようしているのです。

私の感覚だと、いられいじり始めたころより今の方が断然時間かかっていますし、むしろここからどんどん時間を要していくのではないかとオロオロしています。自分がプロだとは思ってはいませんが。

Magic

じゃあ結局Logicなのか。

言い方を変えましょう。Logicがデザインの全てなのか?

NOです。

前の章での持論に則ると、Logicでデザイン語れたら今頃世界中ハッピーハッピーですよね。

Creativity誌の「世界で最も影響力のある50人」や Forbes誌の「世界の広告業界で最もクリエイティブな25人」に選ばれた、「広告界のイチロー」と呼ばれたクリエイティブディレクターのRei Inamoto氏は次のように述べています。

「Magic > Logic(マジックのほうがロジックよりも大事)」ということです。ロジックは大切で積み上げていかないといけませんが、最終的に世の中を動かすのはマジックの方なのです。

この言葉をほんの一月前にとあるカンファレンスで聞いた時、私はすごく感銘しました。

そして、デザインという枠組みの中のフワッとしたLogicに対する自分の考えに今まで縛られていたのではないか、と思いました。

Magicとは何か。私的には例えばこれが印象深い。

https://www.cocacola.co.jp/content/dam/journey/jp/ja/global/2016/stories/1206/ribbonbottle-1_article_top.png (出典: https://www.cocacola.co.jp/stories/ribbonbottle-1

皆さんの身近にあるものなので、「ああなるほどね!」と思ってくれることを期待しています。

引くとリボンになるリボンボトル。気になって手に取る人もいれば、買ってみたら気づく人もいるでしょう。ユーザがそれを引いてリボンを作るときにどういうストーリーが生まれるでしょうか?きっと楽しかったりテンションが上がったり、いいサービス体験ですよね。

コカコーラはこれのみならずいろんなUX(ユーザ体験)/SX(サービス体験)を提供しています。

ペプシ好きに怒られそうなので、ペプシのCM作品を一つ:

体験する側はとってもハッピーになれる。

このようなものを作り上げるのが「デザイナー」です。

いかがでしたでしょうか。

さてさて、タイトルの命題について結論出していませんでしたね。

ずばりデザインは情報科学と同値ではない(デザインは情報科学ではない)と思ってます。ただ、いずれ同値になる世界が来てもおかしくないんじゃないかなぁと思ってます。

これについてはデカルトの機械論的自然観を引用したいのですが、そろそろ限界なので端折ります。

要は様々な自然現象が科学的にどんどん解明されていくことは人間の活動の一つ一つに因果的な意味を見出せるので、デザインするのが今のところ人である以上、そのデザインに行き着くのは決定された要因がある、つまり科学的と言えr......あーーーー分野外すぎましたやめます

言い方変えましょう。どっちも扱うのは情報だけど、どうして情報学群と芸術専門学群(の構成とかデザインとか)が分かれているか、はなんとなくわかるのではないでしょうか。

デザインは情報をいかに設計して発信したり集約したりするみたいな領域ですが、科学かと言われると私は今のところNOだと思ってます。1年前だったらYESって言ったかもしれませんが...。

将来デザイナーになりたいか?と言われたらこれまた別で、別にそういうわけでもないし、教職とってるからといって(以下規制、大きな声で言えないので)

また機会があれば、UIに絞ったデザインの話とかしたいなーって思ってます。

特に先のMagicの話とかコカコーラの話とかに興味を抱いた方は、芸術専門学群の「グラフィックデザイン特別演習」を是非受講してみてください。

長々としたエゴ満載の文章ですみません🙇‍♂️🙇‍♂️🙇‍♂️

読んでいただきありがとうございます。

色彩、タイポグラフィ、イラスト、フォト、グラフィック、ムービー、、、デザインと単に言ってもツールはいっぱいあります。機会があったらデザインの世界を覗いてみてはいかがですか?

デザインはいいぞ